【ドキュメンタリー】欲望の哲学史 序章〜マルクス・ガブリエル、日本で語る〜

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メモ

 

編集が悪いのか、この人の主張が支離滅裂なのか、言っていることがよくわからなかった。

 

編集が悪いのだとしたら、この人の本を読むしかない。

 

この人が批判しているのは「全体性」「世界」である。「そんなものはない」と。1本のペンの蓋を取って「一本のペンなどない」と言う。それはわかる。では、ラディカルに物事を断片化していった際、その極小の単位は果たして何なのか。仮にその極小の単位しか実在しないとして、それを認識できたとして何になるのか?周囲のあらゆる意味から分断された極小の単位に意味を見出すことは不可能である。人間が言語によって認識をするには何かしらの意味体系、換言すれば「全体性」「世界」が必要である。

 

また、カブリエル氏は「新実在論」を唱えているらしい。番組を見ただけでは「新実在論」とは何なのかがほとんどわからなかった。哲学史的にはポスト構造主義ポストモダン新自由主義の次に来るものらしいが、これらの思想(特に新自由主義が思想かどうかは怪しいが、仮にそうしておく)が「全体性」「世界」を主張していたとは思えず、むしろその解体を志向していたと思うのだが、「新実在論」が哲学史の流れにおいて、何を批判対象にしているのかがわからない。実在しない亡霊を批判しているかのようだ。存在しない「世界」を批判すると言う自己矛盾を演じることで、返って「世界」が存在しないことをシニカルに示そうとでも言うのだろうか。

 

また相対主義的な「世界」(氏は現代「世界」が相対主義だと言う!!)において、氏は絶対的なモラルが実はあると言う。その一例として「児童を拷問してはならない」と言うテーゼを挙げる。では、「児童」とは何か。「拷問」とは何か。一本のペンの蓋を取って「一本ではない」と主張するのであれば、論理的帰結としてはそれらの概念も定義が疑われることになるはずだ。なぜ「絶対的」と思考を拒否するのか。モラルは思想的・歴史的に構築されてきたものであり、その限りにおいて「全体性」が意味的に存在すると思う。意味から分断されて、あるモラルが存在しているのではない。

 

相対主義に対して「事実」や「科学」と言う「知」で対抗していくつもりのようだが、それらこそ西欧的な「世界」として現代哲学が批判してきた枠組みなのではないか。相対主義を批判すると言うのであれば、ある「全体性」を構築するしかないが、それが主張上できないため「絶対的モラル」をでっち上げているように思える。

 

部分、部分では肯首できる主張があるのだが「全体」では何をいっているのか全くわからない。やはり「全体はない」と言うことなのか。

 

やはり読むしかないか。